-地震発生時間で止まった我が家の時計-
お友達、お知り合いの皆様、
私および私の家族、親族は無事です。
ご心配をおかけしました。
2011年3月11日午後2時半過ぎ、丸の内の高層ビル30階の廊下で立ち話をしていると、ゆらゆらと建物が揺れだした。
高層ビルは地震の時大きく揺れる構造になっているのだが、余りに大きな揺れが長く続き船酔いのような状態になる。
立っていられなくなるほどの揺れが暫く続き、オフィスに戻ると、上司から非常事態の帰宅許可が出る。
そうは言っても、電車も動いておらず、暫く様子を見ることにするが、和田倉の噴水公園や楠公前の歩道に人がどんどん集まりだす。
そうこうするうちに、お台場のフジテレビの方向から黒煙が激しく昇り出す。これは建設中のビルの火災だったようで、暫くして収まった。
天気は良かったはずだが、空はどんよりとした雨雲のような雲に覆われる。
4時過ぎだったか、千葉方面、葛西の観覧車の横に火の手が見える。暫くして激しい火柱になり、一度収まったかと思ったが、再び爆発して激しく大きな火柱が上がる。これは市原のコスモ石油のタンクだったのだが、距離から言って火柱の高さは500メートル近くはあったのではないか。
7時を過ぎ、JRが運行を再開しないことを発表。その他の私鉄は復旧作業を続けていたがだめだろう。
政府は会社に留まるようにと声明を発表したが、備蓄してあるはずの食料も毛布も配られる気配は全く無く、しかも狭い会議室に閉じ込められてしまい、このまま一夜を過ごすのは嫌だったので、歩いて帰ることを決意する。
8時5分、丸の内から歩き出す。日比谷公園から内堀通りに入るが、歩道は歩いて帰ろうとする人で溢れかえっている、車道も大渋滞。法務省、警視庁、国会議事堂の前を通り、約一時間で半蔵門に到着。案内用の街頭地図を確認しながら、路上に立つ警官に道を確認しながら歩く。
半蔵門から新宿通りに入っても、人の波は一向に減らない。途中で何件かコンビニに入ってみたが、サンドイッチ、おにぎりなどの食料品は全く残っておらず、サラダ、などが僅かに残るのみ。飲み物はかなり残っていました。
新宿駅に近づき、公衆電話で家に電話しようとするが、若い人がなかなか終らない、この日は東京の公衆電話は全て無料だったのだが、緊急用のためなので長電話はやめてほしいい。よっぽどBOXを蹴っ飛ばそうと思ったが、グッと抑えて地下道(サブナード)に入る。寒かったし、地下に公衆電話があったかと思ったからだ。
地下の店は殆ど閉まっていたが、そのシャッターの前に帰宅難民がいっぱい座り込んでいる。その数は西武新宿駅に近づくほど増えて、「これは電車は動いていないな」と思ったが、とりあえず駅に出てみた。
駅のコンコースに出たとたんに運転再開のアナウンス。幸運にも一番電車に乗ることが出来、10時半には帰宅出来ました。
家の中は、家電製品などは倒れていないものの、本棚の本が大量に落下。
PCが無事だったのが一番嬉しい。
停電もなく、ガスもすぐにリセットスイッチを押して再開。でも携帯はメール通話とも全くだめでしたね。4時ごろ発信されたメールを10時頃受信しました。
我が家のマンションの被害状況。
もともとちょっとヒビが入っていたエントランスの床が破損。でも多分被害はこれだけ。
でも、近所の家の屋根がこの通り。
雨が降らなくて良かったです。
翌日(3月12日)の午後には瓦屋さんが修繕していました。